森に咲く白い花


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   常呂遺跡の森に咲いていたニリンソウオオバナノエンレイソウです。両方とも、こ

ちらでは珍しい花ではないけれど、森の木陰に白く浮かび上がっていると、やはり目

を惹かれます。


                           小説 縄文の残光 58

 

                   風雲迫る

 

   延暦元年(782年)大伴家持が鎮守将軍と按察使を兼ね、陸奥守に就任した。

従三位の高官である。『万葉集』の編纂者として名を知られているが、もともと一

族は、武門の家柄である。家持も、朝廷の血なまぐさい紛争と無縁ではいられな

かった。

   天平宝字八年(764年)には、橘奈良麻呂の乱への関与を疑われ、薩摩に左

遷されている。延暦元年(782年)一月にも、皇位を狙ったとされる氷上川継の乱

で、官を解かれ都から追放された。陸奥の最高司令官に任じられたのは六月、

罪を許された二か月後である。家持は、征夷に執着する桓武天皇が、武の家・

大伴氏に期待し、呼び戻したのだと思った。

   延暦三年(784年)二月、持節征東将軍に任じられた。節刀は、命じられた戦の

間、天皇の軍事罰令権を託された証であり、任務が終われば返還される。征討

開始を命じられたのである。

   このときの軍監 (ぐんげん=将軍、副将軍に次ぐ第三の役職) に、坂東の豪族

二人が指名された。家持は、政府の在地勢力への依存が、次第に強まる気配を

感じるのだった。

   前年の勅は、鎮守府役人の腐敗を指摘している。兵糧を軽い物に変えて都に

運び、私腹を肥やしている。鎮兵を私田の耕作に使用している。そのため兵が疲

弊し、戦いに耐えない、と。そして朝廷は、叙位と引き換えに、民間人からの兵糧

献上を募っている。

   政府は、雄勝・平鹿二郡の百姓がエミシに襲われ疲弊しているとして、三年間

の庸調免除を決定した。また天皇はこうも言う。東国の百姓は、征夷の徴発に疲

れ、物資の輸送に苦しんでいる。だから、使者を派遣して慰め、蔵を開いて食料

を支給する、と。

   その上で、坂東八国に、国の大小に応じ、五百人以上千人以下を徴集するよ

う命じた。対象は、軍役に堪える散位(官職のない有位者)・郡司の子弟・俘宕人

(ふとうにん=俘浪人)である。俘宕人は、本籍地を離れた公民。軍団兵の脆弱さ

に業を煮やし、武器の扱いに慣れた者を徴発・訓練し、陸奥に派遣しようとしたの

である。

   農民を束ね、私田の小作料徴収、開墾などを請け負う豪族の中から、在地武

家層が育ってきている。数代後には、源氏や平家、奥羽では安倍氏清原氏

奥州藤原氏などを旗頭に、連携するようになる。

   天皇専制を支える経済基盤は、公地公民制だった。公田(班田)から上がる公

出挙・調庸、そして公民の力役・軍役の分配権は、最終的には天皇が持っていた。

だがもともと、土地と人の私的支配が行われる例外があった。位田・職分田・職

封・神田・寺田などだ。

   大寺・貴族高官の私田は膨大で、そこで働いたり小作料を納めたりする農民

の数も多い。そのうえ、国司や、郡司・富戸など地域の豪族も、活発に墾田開発

を進め、田を私有するようになっていた。

   戸籍と公田の束縛から逃れても生きられる農民、あるいは逃れないと生きられ

ない農民が増えている。西では造都、東では征夷で、公民の疲弊が深刻になって

いた。

   延暦4年(785年)4月、家持は階上(しなのへ)と多賀を正式な郡に昇格させたい

と奏上し、認められた。それ以前の両地は、国府多賀城を支える特別な郡で、

郡役人が置かれていなかった。家持はこの地で、在地勢力の中から、統治責任

者を登用したかった。軍の主力がエミシ征討に遠征している間の、守りを固める

ためである。  (この章続く)