ミズナラの森と雀の交尾

   
   デジモナさん、ブログを再開されてうれしいです。蓮の花が幻想的 ! 

7月に入ってからの美幌は、暑くても30度前後で、比較的落ち着いています。でも、

終日晴れの日はあまりないのに、雨が少なく、庭の野菜がかわいそうです。


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   川湯にあるミズナラの森です。木の種類はほとんど見分けられません。でも、こ

この遊歩道には説明板があるので、ミズナラと書けますます。小さな画面ではダメ

ですが、フルサイズでは、体まで緑がしみこみそうな森の、ひんやりした空気が感

じられます。臨床を覆うシダは、説明板によると、ヤマドリゼンマイという種類。

  駐車場に戻ると、車の作る影の中で、スズメが交尾の真っ最中。覗き趣味がある

わけではないけれど、撮る気満々の歩きの延長でついパチリと。


                            小説 縄文の残光 107
 

                        アテルイの夢(続き)

 
   延暦二十二年(803年)、田村麻呂は再び陸奥に赴き、志波城の造営を開始す

る。翌二十三年に年完成した城は、胆沢城より大きい。当初朝廷は、さらに北へ

征夷を進める拠点にする意図があった。同年、田村麻呂が再び征夷大将軍に任

じられる。政府は、坂東諸国と陸奥国に命じ、米と糒を合わせ、二万四千石の軍

粮を用意させた。

   だが政府の動員力は衰えていた。集められた軍粮は、延暦十三年の征夷の

一割にも満たない。胆沢へ移された柵戸は四千人。回復した伊沢城への九千人

に対し、半数まで達しない。志波城へは、柵戸の入植がまったく行われなかった。

政府は、坂東からの徴兵、城柵造営、柵戸の入植という型の、侵攻を続ける力を

失っていた。
 
 
   延暦二十四年(805年)末、桓武天皇は二人の参議、三十二歳の藤原緒嗣

六十五歳の菅野真道を召し、徳政相論と呼ばれることになる論争を行わせた。緒

嗣は、疲弊する民を安んじるため、征夷と都の造営を止めることを主張。真道は

反対し、ともに譲らなかった。天皇は緒嗣の論に軍配を上げる。崩御の三ヵ月前

のことである。

   自分が先頭に立って推進してきた二大事業を止めるという、政策の大転換を演

出したのが、徳政相論だった。これにより、西の公民を苦しめていた平安京の造

営と、東の百姓を疲弊させた征夷が、ともに終わった。田村麻呂の三度目の征夷

は、実施されなかったのである。

   土地の事実上の私有が拡大し、口分田が衰退していることに、天皇が気付かな

かったわけではない。それでも、遷都と田村麻呂の勝利を同時に発表して祝った

日の、誇らしい高揚感が心に棲みついている。本州北限までのヤマト化。そして

かつてない壮麗な都の造営。その成功が、天皇の絶対的権力を保証すると思い

たかった。歴史にはよくあることだが、このときも、部分的な成功が破綻への道を

掃き清めたのである。

   疲弊した公民が口分田を離れ、免税権を持つ権門寺社の支配下に入る。また

は在地豪族の墾田で働くようになる。この趨勢が税収を減少させ、国家財政を困

窮させていた。分配する財が乏しくなれば、その権限を持つ天皇専制は維持で

きない。桓武天皇の治世が終わるとともに、律令国家から王朝国家への移行が、

加速される。治世末期の政策転換は、遅すぎたのである。

   アテルイは降伏し刑死するが、ヤマトを消耗させ、北辺への侵攻を阻むという

狙いは、的外れではなかった。陸奥国最北の城柵・志波城は、洪水で損害を受

け、弘仁二年(811年)に、南へ二里半(10キロ)後退して築かれた徳丹城に、そ

の役割を譲る。規模は志波城の半分以下。これ以後奥羽に新たな城柵は築か

れていない。

   同年正月、胆沢の北に、和賀、稗貫、志波の三郡が置かれる。だが、ヤマトの

役人が賦役を課すことのできる、柵戸の郡ではなかった。ヤマトの宗主権を認め

るエミシ部族を、折衝に当たる役人の分担のため、区分けしたに過ぎない。中央

政府の直接支配を及ぼすという意味でのヤマト化は、胆沢が北限になった。

                                                                                      (この章続く)