ハマエンドウの色は鮮やか


  サイタマンさん、ありがとうございます。書きはじめるまでに2年かかりました。それ

でも資料に乏しい時代だから、準備が短かったのだと思います。それにしても、自分

の想像力の乏しさを痛感させられます。

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   海岸草原は花の季節になりました。黄色いユリ類や赤いハマナスほどには目立

ちませんが、青と白の色鮮やかなハマエンドウも、わたしのお気に入りです。名前

の通り、庭のえんどう豆に似ています。でも、庭ではこれほど色がさえないような。

培種より野生種のほうが花が大きいのは、珍しいかも。海岸草原ではライバル

多いから、花粉を運んでくれる虫を引き付けるため、目立つ必要があるのかな。


                             小説 縄文の残光 79
 
                田村麻呂(続き)
 
   その場はそれで収まったが、志波離反のお膳立てをした真麻呂に、憎しみを抱

き続ける者はいた。二年後の延暦十四年(795年)、数人の若者が恨みを晴らす。

主犯は、海道に近い山間集落のアテラ。居所を襲い、真麻呂と息子を殺害したの

である。アテラの集落はヤマトの報復を受け、同族六十六名が日向に流された。

田村麻呂率いる征夷軍がエミシ軍と激突してから、一年ほど後の事件だった。

 
   もともとは、延暦十二年に征討を実行する予定だった。だが同年正月、天皇

平安京の造営開始を命じた。早良親王の怨霊に祟られ、洪水を繰り返す長岡京

から遷都し、人心を一新しようとしたのである。それに伴い、予定していた征夷を

延期することにした。

   壮麗な新都の完成と征夷の成功、二つの慶事の時期を合わせれば、いっそう

威信を誇示できると考えたのである。胆沢の奥では荒エミシが恭順した。軍粮・

武具の準備、兵士の徴募・訓練も順調に進んでいる。天皇は勝利を確信してい

た。二月に征東大使の呼び名を、征夷大使に変える。

   すでに陸奥に居た大使・副使を都へ呼び戻し、翌十三年(794年)元日、改めて

大伴弟麻呂征夷大将軍に任じ、節刀を授与した。徳川家まで続く、征夷大将軍

職の始まりである。率いる軍は総勢十万。

   四人の副将軍の下に、軍監十六人、軍曹五十八人が任命された。軍監・軍曹

の多くは地方豪族だった。十万のうち、三万五千ほどは輜重部隊で、その中心は

陸奥・出羽の軍団兵。戦闘員六万五千のほとんどは、募兵に応じた地方官吏や

豪族の子弟などである。そのなかから、異例の多数が抜擢され、士官に任じられ

たのである。田村麻呂は、前回の敗因の一つが、将校の目的意識の欠如と軍規

の乱れだ、と思っていた。

 
   そこで、三月に多賀城に全軍が揃うと、戦闘部隊の将校を集め、こう訓示した。

    「戦いの目的は、交戦地域全域でエミシ村を焼き尽くし、刃向かう者を殺し尽

 くし、捕らえたエミシを諸国に移配することである。苛酷な処置に俘囚が反発する

 恐れがあるので、今回は俘軍を召集せず、ヤマト兵だけで戦う。

   蛮族が一掃された後、中部・坂東から柵戸を入れ、耕地を分け与える。これに

よって、帝の威信が北奥に達する。第一の目標は、伊冶城の奪回である。強固な

砦として再建し、西の山から東の山まで、一帯の蛮族村すべてを破壊する。その

後、胆沢へ進軍する」  (この章続く)