ビオラとポピー


   タムラ、波打っている喉を撮ったのは初めてかも。ホーホケキョ、ケキョ、ケキョっ

やっている間は、体が細くなっているような気がします。精一杯息を吸い込んで

膨らみ、吐き出しながら啼くのでしょうか。

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   ウチの庭に咲いている花です。ビオラは今は野生化しているけれど、元が園芸種

なので、色合いが様々です。ポピーもどこかから種が飛んできて片隅に生えたのを、

一か所に集めました。風が強いせいかひ弱なのか、花茎がまっすぐに伸びません。


 6月初めに何日か30度超の日が続いた後、肌寒い曇天が続いています。はっき

りした雨の日はあまりないのですが、本州の梅雨の季節を思い出します。葉物野

菜は順調だけれど、実ものは成長が遅いような。


                              小説 縄文の残光 74
 
                   田村麻呂(続き)
 
   田村麻呂は天皇の内意を受け、これまでの敗因を徹底的に分析した。まず準

備段階で克服すべきこと。第一は軍粮の不足である。前回の五倍は用意しなくて

はならない。甲や矢もそうだ。貴族・富戸からも徴発すべきた。

   次は兵の質。軍団兵は、戦意にも武技にも疑問がある。輜重輸送や築城など

の、後方任務に充てるため、陸奥・出羽では軍団兵の徴募を停止できない。だが

戦闘部隊が別に必要だ。近年各地で地方豪族が富と武力を蓄え、位階上昇の機

会を窺っている。戦功による出世を説いて集め、集団戦を厳しく訓練すれば、優

れた戦闘部隊になる。

   分断され、不意打ちに遭って壊走したのは、指揮統率が徹底していなかったか

ら。厳しい軍律を叩き込み、指揮系列を整えなくてはならない。

   田村麻呂の指摘は、天皇の命として、次々実行に移された。延暦九年(790年)

閏三月四日、翌々年の末までに革甲二千両を製造するよう諸国に命令。エミシの

戦士が身に纏う革が、錆びずに丈夫で軽く、矢を通しにくいことに着目したのであ

る。

   二十九日には、軍粮の糒(ほしいい)十四万石の準備を、翌年十一月三日には、

同じく十二万石の備えを、坂東諸国に命じる。併せて二十六万石で、前回の征夷

の五倍に近い。

   坂東で百姓の肩にのしかかる負担の重さは、田村麻呂にも分っている。延暦

九年四月には、大宰府にも鉄胄製作を命じている。同年十月二十一日には、諸

国の国司に、甲を作る財のある者を調査させた。このとき、皇民としての責務が

説かれている。翌年三月十七日に、五位以上の貴族に甲製作を命じた。富裕者

には特に多く、二十領を課した。同年六月十日は諸国に、鉄甲三千領の改良を、

十月二十五日は東海・東山二道に、百七十二万五千本の矢の製作を命令。

   輜重の準備と並行して、兵と将の編成も進められた。延暦十年(791年)一月十

八日、百済王俊哲が東海に、坂上田村麻呂が東山に派遣された。軍士・兵器の

検閲のためである。兵を徴募してその武器を点検し、不足があれば官品を給す

る。小隊、中隊、大隊に編成し、鼓鉦の合図で整然と進退する訓練が繰り返され

た。

   七月十三日に征討軍の首脳人事が決まる。征東大使は大伴弟麻呂、副使は田

村麻呂、百済王俊哲、多冶比浜成、巨勢野足の四人だった。弟麻呂は六十一歳

の高齢で、前線には出ず、多賀城で総指揮に当たる。田村麻呂は三十四歳。他の

副使三人は、奥羽での官職や戦闘の経験が豊富で、年齢も田村麻呂より一回りほ

ど上である。  (この章続く)