白金の青い沼


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     美瑛から十勝岳のふもとにある白金(しろがね)温泉に向かう途中にあるのが、こ

の「青い沼」。「青い池とも呼ばれるようです。人工的に作られた堰堤に遮られ、ア

ルミニュウムなどの白色粒子を含む水が溜まった沼だとか。


                            小説 縄文の残光 108
 

                      アテルイの夢(続き)

 
   同じ年の二月嵯峨天皇に、陸奥国官人が連名で征夷を申請する。陸奥出羽按

察使の文室綿麻呂(ふみやわたまろ)が筆頭である。陸奥・出羽両国の兵二万六

千を徴し、爾薩体と閇伊を征討したい、というものだった。申請は容れられ、四月

に、綿麻呂が征夷将軍に、出羽守大伴今人らが副将軍に任じられた。その通知

が伝わる前、まだ雪の季節に、今人が俘囚三百人を率い、爾薩体を襲い、六十

人を殺害した。

   徳政相論前と違い、坂東諸国などから、兵、武器、軍粮を集めての征夷ではな

い。節刀も授けられなかった。奥羽両国内だけの徴兵は、困難を極めた。綿麻呂

は兵を一万人に減らそうとするが、天皇に諌められる。ヤマト系豪族を中心に、

六十二人に軍監・軍曹職を乱発し、辛うじて一万九千五百人を集める。だが軍

監・軍曹の数が多すぎるとして、三十人に半減させられる。ちなみに、田村麻呂の

延暦二十年の征夷では、兵四万に対し三十七人だった。

   結局、徴募した兵の正式な出動の前に、エミシ部族間の紛争がらみで、俘軍中

心の三千人が閇伊を襲う。爾薩体と閇伊の叛意は打ち砕かれた。それがこのた

びの征夷の目的だったので、綿麻呂は、三十八年戦争の時代が終ったと宣言す

る。朝廷も将軍・副将軍の功績を認め、官位を昇進させた。

   だが実態は、エミシ部族(その連合)間の戦争だった。ヤマトの武官は、一方に

官許という名分と糧食を与え、戦いを見分し、降兵を移配するなどの、事後処置

に当たったのだった。戦いで、エミシに対するヤマトの直接支配が北進したわけで

はない。この戦いで俘軍を率いて閇伊を攻撃したエミシの族長は、六年後に今度

はヤマトに反乱を起こし、捕えられている。

   この後は、ヤマト系、エミシ系の豪族と、坂東から奥羽にかけて土着した官人・

武家の、離散集合による紛争が、長く続くことになる。直接支配を北へ進めようと

するヤマトと、縄文の遺風を護ろうとするエミシの戦いは、アテルイの降伏ととも

に終わっていた。アテルイと胆沢エミシの抗戦は、縄文の残光が最後に見せた輝

きだったのである。(本編終り)
 
                           あとがき
     
   一をもって百に当たる、などと言われたエミシの優れた戦闘力は、どこから来た

のか。たぶん、獣を追って山を駆けるくらしが、筋力を鍛えた。馬飼いが発達し、

騎馬に優れていたと、指摘する史書もある。

   その他に、体格の違いも考えられる。発掘されて人骨からすると、弥生人は背

が高く華奢、縄文人は背が低くがっしりしていたようだ。もともとのエミシは、アイヌ

とともに、北方縄文人の裔(すえ)である。古墳時代からの政治的統合は、北九州・

畿内間が先行した。この地域では、弥生系が多数派である。

   関東以北は、縄文系が多い。東人(あずまびと)は、防人(さきもり)の時代から、

勇猛な戦人(いくさびと)として知られている。エミシ戦争で徴募された兵の出身は、

主として坂東だった。ならば、関東人の体格はエミシと同じだったのか。

    縄文人でも、北海道・東北と関東では、遺伝的ハプロタイプが違うという指摘が

 ある。だが、私見だが、食生活の相違が、体力差を助長したのではないかと思う。

                                                                                       (あとがき続く)