ハマナス咲きはじめのころ


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   6月下旬、海岸草原に咲きはじめたハマナスです。盛る緑の中に点々と咲いて

いても、よく目につく色です。バラ科の野生種の中では花が大きいほうではないで

ょうか。7月後半から8月の最盛期には、もっと密集して咲く海岸や湖畔もありま

す。でも初夏の疎らな赤もわたしは好きです。


                              小説 縄文の残光 92
 
                      燃える
 
   延暦十五年(796年)一月に、田村麻呂は陸奥国司兼出羽・陸奥按察使に任

した。十月に、鎮守将軍を兼ねる。翌年十一月に、征夷大将軍になった。朝廷

では近衛少将の地位にあり、延暦十八年(799年)に、近衛権中将に昇進した。

   天皇の信任は厚く、奥羽地方の軍事・行政権は一身に集まった。田村麻呂は、

次の征討で胆沢・志波、いやもっと北まで、ヤマトの直接支配の下に置くことがで

きると、確信している。だが征夷が各国に及ぼす影響に、不安な点がある。今後

さらに増加するはずの、移配エミシのことである。そこで延暦十九年、征夷大将軍

の資格で諸国を回り、各国で移配エミシの実態を検校(調査)した。

   奈良時代から平安初期にかけ、奥羽地方のエミシは、九州・四国から甲信・関

東各地までの各国に、大量に強制移住させられた。 各地ですんなり庸調民化し

たわけではない。

   受入国は夷俘料が定められ、移配後二代は米穀を支給する義務があった。

受け入れたのは、十世紀半ばの記録で三十五カ国。夷俘料の量からすると、多

い国は千人以上の給付対象者がいたことになる。

   三代目からは、律令民として賦役を負う。そのエミシの子孫にも、農事を嫌っ

狩りに明け暮れ、賦役を迫られれば山に逃げる者がいた。また、地方政府に

武力で抵抗したり、地域住民を巻き込む紛争を起こしたりすることもあった。田

村麻呂は、移配エミシやその子孫に融和を促す施策を、諸国の国府と協議した

のである。

    翌延暦二十年(801年)、田村麻呂は節刀を授けられ、直ちに都を発った。二

(新暦3月)十四日、まだ春浅い季節である。多賀城に、軍監五人、軍曹三十

二人、兵四万人が集結した。一か月余の訓練の後、胆沢に向かって進軍を開始

する。

   もう多賀城から伊沢まで、まったく警戒しなくていい。荒エミシの集落は消え、

俘囚村に不穏な動きはない。伊沢城に常駐する千人の兵と、周辺に配された柵

戸が、胆沢南端までの一帯を掌握している。

     今度の征討では、上野と奥会津で徴募した二百人の山林部隊を伴っている。

  山間の郷人で、狩りに慣れた男たちである。森に接する耕地と作物を守るには、

  頻繁に狩をし、獣に人の領分を承認させなくてはならない。上野や会津の奥には、

  その役割を担う人々がいる。胆沢エミシは、森で戦えば負けないと思っている。田

  村麻呂は、森林戦で痛撃を与え、抵抗の意思を挫くつもりだった。山や森を歩き

  なれた男たちなら、胆沢の山は知らなくても、人の踏み跡と獣道は区別できる。

                                                                                         (この章続く)