能取岬の海と花


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   4月下旬、早朝の能取岬で。オホーツク海はまだ早春の気配です。咲いているの


  さすがに能取岬からは目視できませんが、今年は五月に入っても、知床近海や根

室海峡を、流氷のかけらが漂っているとか。30年ぶりのことだそうです。

                              小説 縄文の残光 29
 
                  志波侵攻(続き)
 
   雄勝は、出羽の横手盆地とその周辺をまとめた呼び方。奥羽山脈を挟んで志

波の南西に位置している。日本海側と太平洋側の物資が行き交う山越えの道で、

志波が東の、雄勝が西の起点になる。両地域は古くから交流があった。エアチウ

雄勝とのかかわりを、長老から聞いている。

   三十九年前、天平九年(737年)に、政府は多賀城から出羽柵(このころ現在の

秋田市 付近に遷されている)に至る、直通道路建設を開始した。大軍を催し、雄勝

に向かって軍を進めたが、この地のエミシは軍が雄勝に入ることを嫌った。密か

に戦いの準備を進め、政府に計画の中止を求める。

   とき、志波の南西にある和賀集落の族長が、ヤマトに従い軍を先導している。

だが志波は、雄勝の密使に対し、武器や馬を贈り、戦いになれば人を出すと約束

した。

  雄勝エミシは戦う意志をほのめかし、姿勢が強固だった。現地で軍を指揮した

大野東人(陸奥按察使兼鎮守将軍)は、強行を主張した。だが都には疫病が蔓延

し、政府要人にも死者が続出していた。朝廷上層部に戦いの体制はない。多賀

城―出羽連絡道路建設は、雄勝の手前で止まる。

   その後、都と朝廷が安定を取り戻し、横手盆地の農耕大部族の間で、恭順派

が勢力を伸ばした。雄勝城が作られ、道路が開通したのは、桃生城完成と同じ

天平宝宇三年(759年) である。

   それでも、山の部族には、ヤマトへの服従を嫌う勢力が残っていた。そういう集

落では、三十九年前に志波エミシの見せた厚意が、今も忘れられていない。古風

な部族は復讐にこだわるが、恩義もだいじにする。だから志波に、襲撃を知らせ

る密使が送られたのだった。

   出羽軍が検討した進路は二つ。一つは、北東に進み、田沢湖から東に方向を

変え、奥羽山脈を越えて雫石川に出る道。だが、山越えの道が険しく、馬が難渋

する。選ばれたのは、城からほぼ東に進んで山を越え、和賀に出る道だった。そ

れを雄勝の密使が告げた。黒沢大台山と権現山の間を抜けると、狭い山道にな

るが、騎馬兵も下馬して馬を引けば通れる。

   戦いのが終わって交易が再開してから、エアチウは従軍した雄勝の俘兵に出

会い、進軍の様子を聞いた。山越えの途中で、雨が激しく降りはじめた。和賀で

露営することになったが、ときは四月。まだ濡れた体に寒さが堪える。和賀川沿

いに集落はあるが、軍の総勢は四千である。エミシの小屋や幕舎に入ったのは、

高級将校だけだった。俘軍のエミシは、杉の葉ですばやく雨除けの仮小屋を作

り、携行した毛皮にくるまった。山に慣れていない軍団兵は、木陰で焚き火を囲

み、眠れない夜を過ごした。  (この章続く)