風雪に耐え


   デジモナさん、『人口の世界史』という本によると、農耕発達→防御と人口増加→
 
外部への侵略が、世界のどこでも起きた現象のようです。

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   17日前に屈斜路湖畔の高台に立っていたダケカンバです。雪はわず

かに残っているだけでしたが、その姿が、冬の風雪の激しさを物語ってい

ます。せっかく大きくなりながら、耐えきれず、枯れていく木もあります。

ダケカンバは他の木より遅いけれど、6月も間近なので、そろそろ若葉が

芽吹いているでしょう。どの木が生きていて、どの木が死んでいるか、行っ

てみないと分かりません。


                               小説 縄文の残光 54
 
                                              オマロ(続き) 
 
   エアチウは、アテルイと一緒に、都や他のエミシ地域の情報集め、分析してい

。ある日、分かったことをオマロに話してくれた。

   小黒麻呂の征夷は形だけのものだった。ヤマトの支配は、ほぼ仙台平野と庄

野を結ぶ線の南まで後退している。雄勝、桃生、伊冶の三城ができる前の状

態である。朝廷もようやく、生半可な備えでは反攻できないと悟った。だがこのま

までは、桓武体制の威信にかかわる。ヤマト全域の民を動員し、未曾有の規模

で征を再開しようと、準備を進めている。エミシにも、閇伊、出羽、海道を巻き

込む、反ヤマト部族連合実現を目指す動きがある。中心になっているのは、胆沢

の荒エミシである。

   政府の言う胆沢村は、現在の 一関市 から 北上市 に及ぶ一帯に散在する、数

い集落の総称である。北上川西岸、胆沢川の流域は、広大な扇状地になって

る。ここの稲作集落は、規模がわりあい大きい。と言っても、一集落の人口は

いぜい三、四百人だから、標準で千人のヤマトの郷には遠く及ばない。北上川

東には、二百三十丈(700メートル)から二百七十丈(800メートル)ほどの山々

連なる。その先は三陸地方で、斜面が太平洋に落ち込んでいる。西に奥羽山脈

越えれば、出羽の平鹿と雄勝(秋田県横手盆地)に至る。

   扇状地周辺の山裾や山間に点在する集落は、戸数二、三十で、低地の稲作集

落より小さい。アテルイの家は北上川東岸の山裾、田茂山( 水沢市 羽田)に在る。

標高六十七丈(200メートル)ほどの台地になっており、集落の田畑は広くない。

   山寄りの小さな部族が、いつも発言力が弱いとは限らない。田茂山には鍛冶場

がある。鉄鉱石の精錬はしないが、鉄塊や鉄製品を鋳直して加工する。鍛冶の

技術があれば、近隣集落に頼りにされる。また、優れた馬飼い技術を伝承し、多

くの駿馬を産出する集落も、確かな存在感がある。エミシの馬は、ヤマト人が最も

欲しがる交易品だった。

   大きな稲作部族には、ヤマトと気脈を通じる族長もいた。だが今や、部族内外

に広がる、反ヤマトの声に抗することはできない。その声の一番大きい一人がモ

レ。胆沢地域南端の磐井地方、後に平泉と呼ばれる一帯の若き族長だった。

   その日、田茂山の森、オマロとパイカラお気に入りの日溜りへ、アテルイ、モレ、

エアチウがやって来た。狩りが好きな三人である。暗い小屋の中より、明るい森で

話すことになったようだ。

    「おお、パイカラとオマロではないか。お前たち、ここにいたのか」

    「皆さんそろって。何か大事な話しをするのですね。パイカラ、オレたちがいて

は邪魔になる。小屋に戻ろう」

    「いや構わん。二人ともここにいろ」

    「アテルイ、二人の族長とエミシ将軍になろうというあんただ。その話に、オレた

ちが混じっていいのか」

    「おい若造、オマロと言ったっけ、エミシはないだろう。ヤマトがオレたちを蔑ん

で口にする言葉じゃないか」

    「まあ待て、モレ。オレは将軍などいう者にはならん。人に死ねと命じるなど、ま

ぴらだ。だが、オマロがエミシと言った気持ちは分かる。古くから北の地にくらし、

ヤマトに従わない者たちを、部族を超えてまとめて呼ぶのに、他に言葉はあるか?

どうだ、エアチウ」

    「そう言われれば・・・・。胆沢とか志波とか閇伊とかは、そのあたりにいる部族

の漠然とした呼び方だし。ヤマト人じゃないオレたち全部・・・・。言葉が見つからん

なー」  (この章続く)