檜扇アヤメ


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  今までなんとなく、ヒオウギアヤメヒオウギは 花弁付け根の模様のことだと思っ

ていました。ヒは緋色のことかな、とも。花弁の模様はアヤメにもカキツバタにもあ

し、どこにも緋色はないし、なんだか変だと思って調べてみました。

   そしたら、若い葉の形が 檜扇(檜の薄板を重ねた扇)に似ていることから、つけら

れた名前だったんですね。知りもしないで勝手に解釈して、愚かでした。 アヤメは

日本の南から北までの乾地に分布しているけれど、ヒオウギアヤメは中部地方高

地から北海道に至る湿地の植物で、アヤメより大型だとか。

   写真は 濤沸湖畔で。雑草が茂って遠目にはわからないところが多いのです

が、放されている馬が雑草を食べた後はよく見えます。他に、湿地・水鳥センター

裏に、集めて植えられた一帯があります。厚岸の広い草地・あやめケ原のも、アヤ

メではなくヒオウギアヤメだったのですね。それも今度初めて知りました。

                              小説 縄文の残光 90
 

                   登米・栗原の戦い(続き)

 
   厳重な包囲を、まったく気取られずに脱出するなどできるはずはない。敵はきっ

とどこかに潜んで、不意打ちを狙っている。そう思った田村麻呂は、軍を三千人の

隊に分け、地区の分担を決め、油断せず城内をくまなく捜索するように命じた。自

分も一隊を率い、捜索に加わった。

 
   ヌプリはアテルイに、やがて大規模な征夷軍が現れると言われ、栗原城に抜け

穴を掘っていた。天平勝宝元年(749年)百済王敬福が小田郡(登米の隣)で金を

発見した。アザマロの乱まで、栗原一帯は俘囚村だった。栗原エミシの中には、徴

用され、金鉱山で働いた者がいる。その経験が大いに役立った。

   抜け穴は一年前に完成していた。二つの川底の下を避け、外郭内の西地区か

ら掘り進み、一里半ほど先の森に出口を設けた。入り口は緩い下り勾配の斜面

の途中にある。大岩を切り出し、角を丸め、歯止めを掛けて入り口の上部斜面に

置いた。歯止めの小岩に縄を巻き、抜け穴の内側から引いて入り口を塞ぐ仕掛

けである。

   抜け穴は狭い。一人ずつ進む。先頭が出口に近づいたころ、最後に穴に入っ

たのは、ヌプリの部族百九十四人。全員で長い縄を持ち、歯止めの小岩を引く。

なかなか動かない。潜めた声を掛け合い、力を入れたり緩めたりして、何度も引

く。突然抵抗がなくなった。一斉に尻餅。歯止めの小岩に巻いた縄が、岩肌に擦

れて切れたのである。大岩と密着していて、小岩に縄を掛け直すことができない。

   やむなくヌプリ隊は穴を出て、梃子を使って外から大岩を押した。今度はうまく

動いたが、新たに置いた小さな歯止めは、土にめり込んで利かなかった。下り斜

面である。ぴったり入り口に嵌った大岩は動かず、穴に戻れなくなった。

   エミシが戦をするのは、自分と仲間に迫る危機から脱するため。復讐戦はする。

それは危機をもたらす者への警告である。功名手柄のため、名誉名声のため、忠

大義のため、などの観念は持ち合わせていない。仲間を助けるためには命もか

ける。だが、可能性が断たれれば、逃走も投降もためらわない。(この章続く)