イソツツジの大群落


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   6月26日の川湯つつじケ原です。硫黄山から降り注いだ火山灰でできた100㏊

の原野が、イソツツジに覆われています。ここは標高140から170m。最後から2

枚目の写真を見てください。7月間近なこの時期に、まだ食べられるワラビの若芽

が残っています。低地にもかかわらず、高地に似た気候のようです。イソツツジ

標高1000mを越す山でもよく見ます。だけど、これほどの大群落は他に知りませ

ん。きっと日本一です。


                             小説 縄文の残光 91
 

                  登米・栗原の戦い(続き)

 
   ヌプリは、脱出の道がないと分り、ただちに投降を決めた。百九十四人は政庁

の廃墟に集まり、最初に現れたヤマト隊に降伏を申し出た。出会いが不運だっ

た。その部隊は、前日台車を擁して前衛を勤め、三百人を超す死傷者を出して

いた。身内を失った者が多い。指揮していた軍監は降伏を容れず、兵たちは命

令を待たず、無抵抗のエミシに殺到し惨殺した。

   報告を受け、政庁跡に到着した田村麻呂が見たのは、百九十四の無惨な骸

(むくろ)だった。賊ながら不運な、出合ったのが自分なら、殺さずに諸国に移配し

たものを、と思った。が、口にはしない。殺し尽くし焼き尽くせと鼓舞したのは、自

分である。逸った兵たちを責めることはできない。

   他に敵との遭遇は報告されなかった。どうやら、敵主力は脱出に成功したよう

だ。不審な大岩が見つかった。その周辺を掘らせ、抜け穴が発見された。夜の間

に、ここを通り、森の奥深くに隠れたにちがいない。

 
   胆沢エミシは、栗原の戦士を伴い、山間をたどり、翌日昼に胆沢へ帰り着い

た。登米と伊沢城の戦いで、合計三百を超える戦士が命を落とした。

   栗原エミシの多くは、ヌプリの死を知って戦意を失い、その年のうちに故郷に戻

った。掃討を免れた山間集落で恭順し、俘囚になることを選んだのである。抗戦

の意志が固い戦士は、胆沢の部族の他は、志波ナタミなどごくわずかである。そ

の総数はほぼ千四百人。

 
   四人の副将軍は誰も、追撃を唱えなかった。敵主力が生残った以上、進軍す

れば山林戦になって長期化する。栗原・登米一帯の掃討と伊冶城の修復が急務

だと、わかっていた。多賀城で大将軍大伴弟麻呂と副将軍が協議し、六月十三

日付で、戦勝の報告が都に送られた。

   斬首四百五十七、焼いた集落七十五、得た馬八十五、捕虜百五十。捕虜の数

は、都で朝廷に献上する者だけを数えている。非戦闘員を中心に、その十倍ほど

が諸国に移配された。

   十月二十二日に平安遷都が宣せられ、六日後正式に戦勝が披露される。二年

後に、伊冶城と荒らされた耕地の修復が完了し、延暦十五年十一月、北陸・坂東

の民九千人が移された。山間小集落を除き、栗原の住民がそっくり入れ替えられ

たのである。 (この章終わり)