秋の朝焼け
馬明さん、お名前に覚えがあります。以前にもご訪問いただいたような。あなたは都会人だからマンホールな
どに、わたしは田舎者だから野山や動植物に目が行くのでしょうね。
厚い雲さえかかっていなければ朝焼けはできますが、陽の出前のわずかな時間なので、気温が下がって窓を
開けない季節には、ちょうどいいタイミングで外に出ないと見ることはありません。秋になってから撮ったのはこれ
ょう。
ゲームが世界を変える?②
心が満たされる幸せな日々のために必要なのは何でしょうか。飢えや渇きを免れ、雨風寒暑を凌ぐ手段が
ある。少なくてもそれは必要です。その上で、親しい人々と睦みあっていて、単調になりすぎない適度の刺激
があり、傷病や災害に遭うことがなければ、文明以前の昔の人は満足していたようです。いまでは、衣食住に
不自由がなく、まあまあ健康で、災害に襲われてもいないのに、満たされない気持ちを抱いている人がたくさ
んいます。その原因は、自分の行為の意味が直接自分に還ってこない、間接化された社会環境にあるので
はないでしょうか。
かつては、狩漁や採集で食料を得ようとするのは、自分や自分の親しい人が消費するためでした。その成功
や失敗が飢餓の苦しみや飲食の喜びに直接かかわるからスリリングです。道具、衣類、家を作るのも、誰が
使うためかわかっていました。より良いもの、より美しいものを作って、分かちあうくらしを楽しもうとしました。
刺激も気持ちの交流も日常の生活行為に埋め込まれています。そして、みんなで準備してみんなで陶酔する
祭りは、集団の一体感を盛り上げます。
現在、わたしたちの労働はほとんどお金を稼ぐために行われています。労働の成果はわたしたちの手から
離れ、いく重にも隔たったどこか遠くに持ち去られます。料理人が一生懸命に調理するのは、家族や仲間とい
っしょに食べて楽しむめでなく、お金を払ってくれる「お客」に来てもらうためです。生産やサービスの意味は、
お金という対価に抽象化されています。消費のほうも同じです。親しい誰かがあなたをだいじに思って、おいし
い作物を作り心のこもったサービスをしてくれるわけではありません。より多くお金を払えば、よりよいモノやよ
りよいサービスを期待できます。お祭りやイベントも、主催者が用意したところへ行って見物します。そのため
にはたいていお金を使うことになります。
お金という抽象的な基準以外に、もうひとつフィードバックされるわたしたちの行為の意味として、評価があり
ます。仲間から、接触のある目上の人から、属する組織から、好意を得たい、高く評価されたい。世間が認め
る名声が欲しい。これもたいてい金銭と無関係ではありませんが、お金そのものより大きな意味があると思う
人もいます。地位の上昇は直接には財産ではなく評価の結果です。しかし評価とは他者が下すもの。自己評
価と他者の評価は乖離するのがふつうです。自己評価だけが高ければ認められない不満が鬱積し、他者の
評価に従順になりすぎれば卑屈になります。
「日経サイエンス」の記事を読んでいて頭に浮かんだのは、生活のゲーム化が文明以前の人々の幸福感に
似た感情を甦らせる可能性です。(明日に続く)