7月の空
今月の前半、まだいまのように寒くなかった時季の青空と雲です。こんな空がなつかしい。早く夏らしい天気に
戻ってほしいな。雨だったり雌花雄花の開花がそろわなかったりで、カボチャの授粉がほとんどできませんでし
た。今年ウチはきっと不作ですね。
ピダハン―類を見ないほど幸せな人々④
ピダハン語には黒、白、赤、緑など、色そのものを表す言葉がありません。外からの観察者が、ピダハンの
よく口にするフレーズを色の名前と解釈したことはあるようです。例えば「血は汚い」が黒、「それは見える」ま
たは「それは透ける」を白、「それは血」を赤、「いまのところ未熟」を緑、と(169・170頁)。色を識別しないという
ことではなく、実体験のなかでは常に物と結びついている色を、物から引き離して抽象化しないということでし
ょう。
エヴェレット夫妻はピダハンに請われ、彼らに数を教えようとしたことがあります。しかし八ヶ月たっても、1か
ら10までのポルトガル語を言えるようになる者も、1+1=2を確実に計算できる者も現れず、授業は中止になり
ました。エヴェレットは、数や計算は抽象的なもので、ピダハンにとって 「抽象化は実体験を超え、体験の直
接性という文化価値を侵すので、これは言語に現れることが禁じられる」と考えます。「ピダハンの言語と文化
は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ」。だから彼らは、「食
料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない」、と。(186・187頁) 血縁
の意識もその例だとエヴェレットは考えます。彼らは曽祖父母以遠に血縁の意識をもちません。祖父母まで
は多くの人が出会った経験があるけれど、曽祖父母はそうでないからです。(189頁)
自分や仲間が直接体験したことでなければ信を置かない、そんな文化には宗教が入り込む余地がありませ
ん。実体験でその実在を確かめられない祖先を崇拝したり、見ることも声を聴くこともできない神を信じたりす
ることは、彼らの脳内に強固に入り込んでいる文化に拒否されます。ピダハンにも共同体のつながりを賦活さ
せる神話のような物語はあります。しかしそれは、「その時点で生存している証人(190頁)」がいる物語に限られ
ます。
エヴェレットは伝道師としてピダハンのなかに入ったので、キリスト教の説明をしました。彼らは「ヒソー(イエ
ス)という名の男がいて、彼はほかの者たちに、じぶんが言ったとおりにふるまわせたがっている」と、理解しま
す。しかし、エヴェレットがその男を自分の目で見たことがないとわかると、「その男についてわたしが語るどん
な話にも興味はない、と宣言する」のだそうです。(368頁)彼らの態度がエヴェレットに、「信仰というものの本
質を、目に見えないものを信じるという行為を問い直」させることになります(375頁)。彼はこう書いています。
ピダハンは断固として有用な実用性に踏みとどまる人々だ。天の上の方に天国があることを信じないし、
地の底に地獄があることも信じない。あるいは、命を賭ける価値のある大義なども認めない。彼らはわたし
たちに考える機会をくれる―絶対的なるもののない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろ
うかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。(378頁)
次回は性関係を中心に「正義も神聖も罪もない世界」を見ることにします。(明日に続く)