常呂のフデリンドウ
そらさん、セイヨウタンポポが一本二本だとなんとも思わないし、庭で見つければすぐ抜くけれど、広い農地や
原っぱで黄色い絨毯を広げたように密集して咲いていると、やはりきれいだなー、と。
ほんとうに小さな花です。背丈5センチ、花は1,2センチでしょうか。前半はワッカ原生花園で撮りました。枯れ草
のなかに咲いていたので、同行者に言われなければ見逃すところでした。後半は常呂遺跡の森で。五月末のこ
の日、天気がよかったので花は開いていて、名前の由来である筆の風情はありませんでした。薄暗くてすぼんで
いると似ているのだそうです。
ピダハン―類を見ないほど幸せな人々③
ある時エヴェレットはよちよち歩きの子どもが焚き火でやけどをするところを目撃します。彼がふしぎに思っ
たのは、近くにいた母親が警告の低い声を出しただけで、子どもを火から遠ざけようとしなかったこと。そして
痛みに泣く子を抱き起こして叱りつけたことです。もうひとつの事例。二歳くらいの幼児が刃渡り20センチほど
の鋭い包丁で遊んでいて、振り回すたびに刃先が子どもの体に触れそうになります。周りの大人は誰もそれ
をやめさせようとはせず、幼児が刃物を取り落とすと母親が拾ってその子に手渡したのです。このときは無事
でしたが、エヴェレットはナイフでひどいケガをしたピダハンの子どもを何度も手当てしています。親はやけど
やケガをした子を、慰めたりせず叱ります。ピダハンは、ピダハン以外の親が子どものケガを防げなかったこと
をわびて慰めるのを見て、目を剥いて驚きます。「あの人たちは子どもが痛い目にあわないようにするにはどう
したらいいか、教えてやる気はないのか?」と尋ねられたこともあるそうです。(128・129頁)
ピダハンは幼い子どもを手放しで愛するのだそうです。「微笑みあい、戯れ、話し、一緒に笑いあう。・・・・・親は
子どもを殴らないし(エヴェレット自身はしつけのために子どもにお仕置きをしていましたが、ピダハンの子育を
見て反省し改めます―引用者)、危険な場面でもないかぎり指図もしない(150頁)。」しかし子どもは、3,4歳で
下の子が生まれて乳離れさせられると、もう大人扱いされます。空腹に耐えること、仕事をすること、村の生活
に寄与することを求められます。夜にはよく断乳期の子どもの泣き声が聞こえると、書かれています。それ以
後子どもは大人と対等な社会の一員になり、酒もタバコも禁じられません(139-141頁)。無理強いされたり傷
つけられたりがなければ、大人との性行為も許されます(147頁)。
ピダハンは集落がちがっても、ピダハン社会をひとつの家族のような仲間とみなしていて、互いの助け合い
が規範になっています。また一方で、強い自立心を持っていて、自分のことは自分で始末をつけるのが当然
だと思っています。だから、苦しんでいたり飢え死にしそうになっていたりする仲間を見過ごしにはしないけれ
ど、手を差し伸べるのは相手が次の二つの条件を満たしているときです。手助けがあれば生きられること(前
回述べた母親を失った乳児にはこの条件が欠けています)。もうひとつは明らかに自助が及ばない状況にある
こと。例えば、病気だったり、年とりすぎたり幼すぎたりして、自分で食べ物を手に入れられない場合です。(14
5頁)
10代のピダハンは仲間どうしでこそこそし、傍若無人。彼らのふるまいはエヴェレットに、「10代の破天荒さは
万国共通のようだ」と思わせます。しかし彼らは自分の行動の責任から逃れようとはせず、すぐれた働き手と
して、村全体のくらしに貢献しています。「ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない」、
と彼は書きます。(142頁) 生きているあいだは生きる、そのために自立できる知恵と力を身につけなければ。
だから乳児期でもやけどやケガは自分の責任だと、痛みとともに自覚させようとします。子どもは断乳直後か
ら自分の空腹を自分で満たす活動を始めなければなりません。そして大人がしていて自分にできることなら、
どんな楽しみも許されます。
わたしが思うに、いまわたしたちの社会は子どもに、口では自立しろと言いながら、たくさんのことを指図し、
たくさんのことを禁じています。わたし自身、もの心付くかつかないかのころの息子がマッチを使いたがったと
き、息子の指を掴んで燃えているストーブのごく間近まで近づけてから許すという、小細工を弄しています。彼
が大学の数学科進学を考えたときも、卒業後の進路が狭いと言ってしまいました。最終的な彼の選択は薬学
部でした。自分のことならともかく、子どものことでは死ぬときは死ぬと腹をくくるのはかなり難しい。そこを何も
のかに付け込まれているような気がします。わたしたちの社会は、真綿の檻に入れていちいち指図するような
子育てを推奨しながら、実際には利用したり不満のはけ口にしたりする相手を探している人が多い。そんな社
会にわたしもけっきょく加担していたのですね。一方ピダハンは、幼くからやけどもケガも空腹も自分の責任だ
と、身をもって学ばされます。そして生残れば、いつもは笑いながら、ほんとうに必要な場合には助けてくれる
仲間に囲まれて生きることになります。
ピダハンの若者は自立する自分の力に自信をもっています。エヴェレットは彼らの気持ちをこう代弁します。
「自分の人生を脅かすものが(知るかぎりにおいては)何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足して
いるのなら、変化を望む必要があるだろうか。」そして進歩には対立や葛藤、それに難題を乗り越えようとする
精神が不可欠ではないかと自問したうえで、この節を次のように結びます。
ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ、それによって、人生に満足している人たちの
社会ができあがっている。この考え方に異を唱えるのは容易ではない。(143頁)
エヴェレットは伝道師としてピダハン社会に入りながら、けっきょく棄教することになります。(続く)