呼人の森のシジュウカラ

タムラ、図鑑で見たけど、ムラサキケマンって花が細いエゾエンゴサクみたいだね。キケマンは見たことが

あるよ。ムラサキケマンやオオケマンはうっかりするとエゾエンゴサクと思って見過ごすかも。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

 勝手にゴジュウカラと決めているけれど、北海道にはシロハラゴジュウカラもいます。本日の写真の鳥がほん

とうはどっちなのか、自信ないです。フィフィフィフィという澄んだ高音の鳴声も共通みたいだし。だいたい6枚とも

同じ個体かどうかもはっきりしません。


政治の現在と未来についての感想 最終回
                                   ――― 「私」の公共性
 
 わたしは本論で「諸個人の幸せの総和増大が全体利益」だと主張しています。これまでの文明

史では「諸個人の幸せの総和」は実体のない観念にすぎず、計測不能でした。そのため公権力

の掌握者は、それぞれの宗教的あるいは世俗的イデオロギーに基づく全体利益(大義)を提示し

て、その下に人々を統合しようとしてきました。見知らぬ多数者の協働の力を実現する方法が他

になかったからです。しかし情報化の進展によって、これからは誰でも「その考えはわたしの幸せ

を妨げるよ、あの考えはわたしの幸せに沿うよ」と、発信できるようになります。それを統計的に処

理することで、どの公的提言が私的な幸せを増大させると人々が思うか、現実に検証できます。

 わたしは私的な幸せは究極のところで、ヒトという種の個体に共通な生物学的性質(ヒトの本性)

に規定されていると考えています。生物学的性質のなかでも、ヒトの場合は脳の役割が他の生物

より大きくなっています。そしてヒトの脳には固有の性向があります。つまるところ、自分の生存と

子孫への命の継承を可能にする衣食住・健康・性愛の確保、コミュニケーション可能圏内の人々

との親和、美意識・好奇心・創造力の発揮。それらと結びつく活動のなかで、人は幸せを感じるの

だと思います。ヒトの本性に規定された幸せの要素は、縄文文化のような発達した狩猟採集社会

で、すでに出揃っていたのではないでしょうか。江戸時代の庶民は、公的なシステムからかなり

遮断されていたので、個人的な幸せを求める自分の気持ちに正直な反応ができたようです。しか

し、「公」がこれほど個人の身辺に浸透している現在では、その干渉を断って「私ごと」に徹してく

らすには法外なコストがかかります。

 本性にもとづくものですから、公的観念に邪魔されなければ、何が自分の幸せに結びつくか、人

はきっと直感や感情で判断できます。とはいえ例えば、原発のリスクを最小化した上で経済成長

のために原発を活用する。あるいは、経済成長を損なうリスクを冒しても原発を全廃する。その対

立する議論の全体をたどり、どちらかの結論を導くには、直感や感情は役不足です。それは十分

な専門知識があって、きちんと整理して発言し、論理的に判断できる人にやってもらうしかありま

せん。しかし議論をライブで視聴しての、個々の場面での発言への共感や反発としてなら、専門

知識のない人にも直感的・感情的に反応できます。ライブであれば、発言者のしゃべり方、顔色、

態度などから、背後にどんな私利私欲があるのかも、少しは透けて見えるでしょう。そして視聴者

にとって、どの発言者の私利私欲が、より多く自分の幸せと響きあうかも。

 この段落は、東浩紀の『一般意志2.0(講談社)に触発された、わたし流の解釈による同書の受

け売りです。なお彼の言う「一般意志」は、わたしの「個人的幸せの総和」とかなり重なります。彼

の考えでは、議論(熟議)を視聴する多数者の、ツイッターなどでただちに寄せて統計処理された

マスとしての反応は、自然物のような存在感があり、それを目にする討論者の発言を制約せずに

はおきません。
 

 すべての省庁の審議会や委員会を、あるいは法案条文作成の模様を例外なく中継する徹底 
した可視化国家。政治家と官僚と学者が集う会議室には必ずカメラとスクリーンが用意され、議 
論はすべてネットで公開され、他方では室内には、数千数万の聴衆の反応を統計的に処理し

タグクラウドやネットワーク図で映像化してダイナミックにフィードバックするモニタが用意され  
インタラクティブな政府。とくに気負うことなく、ただだらだらとUstreamニコニコ動画の画面  
を立ち上げ、中継画像を見てコメントを打ち込むだけでその呟きが回り回って政策審議の行方  
に影響を及ぼす、引きこもりたちの集合知を生かした新しい公共の場。熟議とデータベース、小 
さな公共と一般意志が補い合う社会という本書の理想は、ひとつにはそのような制度設計を目 
指している。(176177)
 

 「あらゆる熟議を人民の無意識(わたしの言い方だと自分の個人的幸せの視点―引用者)に曝すべ
 
 し。(182)」だが熟議に参加する人は限られるし、最終的に評決するのは「選良」だ、というのが

 東さんの主張です。(わたしとしては、タバコについての議論なら、参加して直感的・感情的批判に

 さらされてみたい気もしますが。)

 全国民がすべての熟議の中継を視聴してコメントを発信することは困難です。しかし私的な幸せ

は人の本性にもとづくものなので、必ずしも全国民・全人類の反応を集計する必要はありません。

普遍的なものなら部分が全体を代表できますから。もちろん統計処理に意味があり、特定団体の

動員を無化できるほど大きな「部分」でなければなりません。いまや大義は公共性を失って私性を

あらわにしてきています。そして計量可能になってきた私的幸せの総和には公共性があります。

東さんの言うような形になるのかどうかわかりませんが、それまでに文明が崩壊しなければ、いつ

かきっと、大義の汚染を拭った私的幸せのマスとしての視点が、政治を主導することになると思い

ます。以上が現在と未来の政治に対するわたしの感想です。(終り)