鮭の死骸が累々と
11月14日 美幌川・駒生川
産卵や精子放出が終わって死んでいく。遺伝子に刻まれた運命とはいえ、累々
たる死骸を目にすると、無残という言葉が浮かんできます。毎年イクラや鮭の身を
大量に腹に納めておいて何言っているんだか、ですけどね。でも、小さな虫ならと
もかく、これだけ大きな動物のこれだけたくさんの損なわれた残骸に、頭のなかの
理解とは別に、わたしの腹の底で不穏な気配がうごめきます。捕獲された漁船上
や漁港の鮭なら、どんなに多くて平気なのに、どうしてなのでしょうね。
思えばヒトも、旧石器時代の昔からずっと、死屍累々の場面を経て生を繋いでき
ました。自然死の他に環境急変や自然災害があったでしょう。文明以後はさらに、
る焼死、先住民や反対派住民の虐殺、戦乱による飢と病の蔓延、などなど。歴史
や報道として知ってはいても、その場面を直視したくも思い出したくもないと、わた
しは意識から締め出そうとしてきました。
美幌川の底と駒生川の浅瀬や岸に散らばる鮭の死骸は、生きている自分に対
する、無意識のうしろめたさをつつくのでしょうか。