美瑛の丘


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   山々に囲まれた起伏する丘と点在する農家。そして炎型の樹木。美瑛の風景を

短く言えばこんなことでしょうか。オホーツク地方の丘陵地帯は、たいていカラマツ

の防風林で区画されています。内陸の美瑛は海風に曝されないので、防風林が少

ないのかも。風景に伸びやかさがあります。


                             小説 縄文の残光 99
 
                     アテルイの夢
 
   岩木山が秋色に染っている。オマロが、パイカラと十二歳の息子・キロロを伴

い、津軽に来てから半年が経った。出発したのは、胆沢の戦士が城に出頭する

前日。今は、二十六年前、九歳で別れたトクシを探し当て、同じ集落でくらしてい

る。場所は、岩木山の北山麓津軽平野の端である。

   トクシはナタミのくらしに、心の底では馴染めないところがあったようだ。自分た

ち三人は子どもだった。母は、男の都合に従わされる下野のくらしに、無意識の

不満があったのだろう。だから四人はわりあい早く馴染んだ。

   トクシは男で大人。他人から見下されないように身構えるヤマト流の生き方が、

より深く染み付いていた。腹の底を隠せないエミシの人付き合いに、違和感がな

かなか抜けなかった。だが今では、自慢せず卑下もせず、ありのままの自分をさ

らけ出す、エミシ流の付き合いにすっかり慣れたようだ。もう六十二だが、まだ田

仕事はできる。ここに来てから結婚し、十七歳の息子と十三の娘がいる。

   トクシの息子ということで、オマロ一家は集落に受け入れられた。父の家の近く

に、小屋を建ててくらしている。

   パイカラは父の稲作を手伝っているが、オマロは晴れていれば息子を連れて山

に入り、狩りをした。熊の胆や皮、それに鹿皮もだいぶ溜まった。ある日、都の交

易船が十三湊(とさみなと)に入ったと、知らせる者がいた。オマロは、熊の胆を懐

に入れ、獣皮を馬の背に積み、湊に出かけた。

   十三湊は、後の奥州藤原氏の時代に、南の博多と並ぶ北の大陸貿易港とし

て、大いに栄える。それ以前から、畿内・北陸と渡島(北海道)の交易中継地であ

り、南北の文化が交流する場所だった。後背地の津軽平野には、弥生後期の温

暖期(B.C.3世紀からA.D1世紀)の一時期、奥羽南部に先駆け、灌がい稲作が波

及している。その後数世紀間、寒冷化で水田も定住集落も消えるが、この時代は

温暖な気候が戻り、稲作が定着し、人口も増えはじめていた。

   今回入港したのは官船だった。湊には柵があり、ヤマトの役人と少数の兵が常

駐している。近隣集落の族長がそこに集まり、官品と地場物産が、饗応を伴う朝

貢の形で交易される。

   だが舟人は官品の他に、自前で、または都の商人や公卿に託され、私物も積

んでいる。それらは市庭(いちば)で取引される。オマロが行く市庭では、品物だけ

でなく情報も交換された。

   舟人の話題に、八月に胆沢叛徒の首魁が処刑された件もあった。オマロは、

名前を尋ねずにはいられなかった。大墓公阿弖流為と磐具公母礼。まちがいな

い。もうアテルイは生きていない。覚悟していたこととはいえ、やはり衝撃は大き

かった。

   その夜キロロが眠ってから、囲炉裏の前でパイカラと話し、モチザワ集落に出

かける日が来たのだと、確認しあった。モチザワにはアテルイの息子がいる。パ

イカラにとって甥である。オマロが戦士の一人として胆沢城に出頭しなかったの

は、息子を訪ねてほしいという、アテルイの懇願があったからだった。
 
                                                                                        (この章続く)