能取岬の踊子草


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   路傍の藪にあっては、ほとんど注目されることのない草です。わたしが毎年撮りた

くなるのは、踊子草という名前があるから。名前のせいで近寄って見た時の葉と花

の配置に、笠をかぶって踊る女性の姿をイメージします。

   能取岬には、駐車場から崖際に出て突端に至る遊歩道があります。何年か前、

最初にこの花を見かけたのは、突端から牧場側の草叢に開かれた道でした。今年

この道は刈り払われず、夏にはどこが道かわからなくなっていました。美幌のせせ

らぎ公園もそうですが、あちこちの公園で、年々閉鎖されたり手入れが放棄された

りする小道が増えているような。

  今年踊子草が咲いていたのは、崖際をたどる道の脇です。大きな群れになってい

ました。牧場側の裏道が藪になって人が入らないので、人目に付く表に引っ越した

のかな。それでも地味な花だから、足を止める人はほとんどいませんが。


                               小説 縄文の残光 98
 
                  燃える森 (続き)
 
   その日は結論が出なかった。以後ずっと、アテルイは「戦を終わらせる責任」を

考え続ける。胆沢エミシは志波の征服という考えを捨てたが、田村麻呂は、そうい

う行動を危惧したようだ。軍を志波に進め、支配の体制を強化した。さらに閇伊に

も軍を出し、一帯の恭順を再確認したという。

 
   次の年にアテルイが本人の口から聞いたことだが、田村麻呂は七月二十七

日、戦勝を都に報告。十月二十八日に都へ凱旋し、節刀を返還した。翌月七日

には、従三位に叙せられ、いわば閣僚級の地位に上った。

   そして早くも、翌延暦二十一年(802年)正月九日、胆沢城造営のため、再び陸

奥に向かう。その二日後には、関東甲信越の諸国が、浮浪人四千人の陸奥移配

を命じられる。四千人は、兵とともに城柵造営に従事し、完成後は耕地を与えら

れる。

   胆沢のヤマト化が着々と進む中で、山中のアテルイは、ついに降伏を決意し

た。モレも同意し、田茂山の対岸に姿を現している城柵に、密かに使者を送った。

アテルイは、自分とモレが反乱の首謀者として名乗り出るので、戦士を助命し、

非戦闘員は咎めないでほしいと、請うたのである。

   田村麻呂の返事は、正式な作法に則って降伏すれば、戦に加わった者は諸国

に移配する。非戦闘員は俘囚として生きることを許す。首魁二人の処分は朝廷に

委ねられるが、自分としては助命を嘆願するつもり、というものだった。アテルイ

モレも、生き 延びることは考えていない。自分たちの命と引き換えに、胆沢エミシ

の子孫が残るならそれでいいと思っていた。

   四月十五日、二人は武装を去り、面縛して(両手を後手に縛った姿)、胆沢城に

出頭した。後には五百人余の戦士が続いている。降伏は容れられた。このときか

らヤマトでは、二人をそれぞれ、大墓公(たものきみ)阿弖流為、磐具公(いわいの

きみ)母礼と呼ぶことになる。戦士が諸国に移配され、非戦闘員が胆沢に戻った

後、七月十日に、田村麻呂は二人を伴って入京した。

   移動中の駅家で、夜は二人の縄目が解かれた。たびたび田村麻呂が訪れる。

ある夜、こう語った。

    「お前たちは、わずか二、三千人の兵で、十倍、三十倍余の我が軍と、十二年

間に亘って対等に戦い続け、時には勝利を収めた。我は武人だ。敵ながら内心、

お前たちの武勇と知略に、深く感じるところがあった。味方ならどれほど心強いか

と、たびたび思ったものだ。

   どうだろう、今からでも天皇(おおきみ)に心からの忠誠を誓い、我の陸奥・出羽

平定に力を貸す気はないか。その気になってくれれば、朝廷の貴顕を訪ね、天皇

に嘆願し、何とかして二人の命を助ける。お前たちほどの勇者を、むざむざ死な

せるのはいかにも惜しい」

   アテルイの答えはこうだった。

   「あなたのお気持ちには感謝します。だがオレたちは、森の聖霊と一体でした。

オレたちは戦って、天皇の軍に森を焼かれ、聖霊は去りました。もうオレたちは

抜け殻です。死に急ぐ気はないが、あえて生き延びる気力もありません。よしん

ば生き延びても、気力の失せた者は、あなたの役に立たないでしょう」

   それでも田村麻呂は都に着いてから、二人の助命を請うた。だが容れられなか

った。八月十三日、アテルイとモレは斬首された。アテルイ四十六年、モレ五十一

年の生涯だった。(この章終わり)