湿原に咲く


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   6月初旬の釧路湿原に咲いていた花です。順に、ワタスゲ、コンロンソウ、エンコ

ウソウ、ノイチコ゜。終わりの3枚はオオバナノエンレイソウです。冠水帯、ミズゴケ

帯、林床、縁の丘などと、条件が違う場所があるので、草花の種類も多様です。ミ

ツガシワ、ヒメカイウ、ヒメシャクナゲ、イソツツジはすでにアップしたので、今日は

それ以外を。


                             小説 縄文の残光 72
 
                 巣伏の戦い(続き)
 
   戻った俘囚から報告を受け、軍監は自分の周りを厚く固めさせた。残りの兵を

左右にそれぞれ千五百ずつ、大きく展開させる。敵は数百と聞いて、包囲し殲滅

させられると判断したのである。

   だが包囲陣は完成しなかった。兵たちが藪を伐り払いながら広がりはじめたと

き、一つに固まったエミシが、猛烈な勢いで突進してきたのである。エアチウが先

頭。道を進む数列がそれに続き、両側の薮から来る列は少し遅れ、長い楔形。

   エアチウが振るう蕨手刀が、突き出された鉾の柄と共に、腕を切り落とす。構え

た楯を割り裂く勢いで、胴をなぎ払う。後続のエミシも手強い。ヤマト軍中核は、軍

監を包み込む密集隊形のまま、じりじり後退する。

   だが、両翼に展開しはじめていた兵が、鳥が開いた翼を閉じるように、左右から

志波隊に迫る。後に回り込もうとする一隊もある。エアチウは後退する敵集団を追

う。後続のエミシとの間に、わずかな隙間が開いた。そこへ左右からヤマト兵が雪

崩込み、エアチウを包囲した。孤立させまいとして、エミシ戦士数十人が包囲を破

る。

   激しい乱戦になった。そのとき、木の上から一本の矢が斜めに飛来し、軍監の

膝下を切り裂いた。鎧の草摺(くさずり)が尽きるあたりだ。軍監がよろめき倒れ

る。乱戦に気をとられた護衛兵が、楯をかざしていなかったのである。

   エアチウの目に、前に立つ兵たちの間から、倒れこむ軍監の姿がちらっと見え

た。刀を振るいながら、大声で叫ぶ。

    「散れ。散って脱出!」

後方のエミシから順に、左右のヤマト兵に切りかかり、薮に飛び込んで走り始め

る。囲まれて斬り立てられ、命を落とす者もいる。

   傷ついた軍監を包む集団の中から、下士官の声が飛ぶ。

    「賊の首魁はここにいるぞ。囲め」

志波戦士が包囲の一画に切り込むたびに、ヤマト兵が倒れる。だが、「弓兵!」の

声で、包囲の外側からおびただしい矢が降り注ぎ、エミシ兵の屍が増えていく。つ

いに、全身に矢の突き刺さったエアチウが、蕨手刀を空に突き上げたまま、息絶

えた。戦いは終わった。残されたエミシの死骸は五十を超える。ヤマト兵の死傷

者は千に近い。

   軍監の傷は浅い。深さ五分(1.5センチ)ほど肉を抉られただけだった。支えら

れながら歩くことはできる。だが死傷者が多すぎる。味方の負傷者や死骸も放置

できない。道案内の俘囚の姿もない。山越え隊は、来た道を辿って撤退すること

になった。

 
   七月に天皇が把握した戦績には、古佐美が五月末に送った報告と違う部分が

ある。エミシ八十九名を斬首したこと、戦傷者数が二百四十九ではなく二千近いこ

とである。多冶比隊の結果が加算されたのだろう。古佐美は六月初めに、軍の解

散を上奏し、返事の勅が届く前、同月十日に実行している。軍粮が尽きたのであ

る。古佐美の帰京・節刀返還は九月八日。味方に多くの犠牲者を出しながら、

図した胆沢と志波の制圧に何の成果もなく、今回の征夷は終わった。

   天皇は激しい怒りを見せたが、処分は寛大だった。古佐美は、曽祖父が天皇

同じで、罪ありとされながら処罰を免れた。安倍猿嶋黒縄は官職と位階を奪われ、

池田真枚は官職だけを失う。多冶比浜成は喚問の対象にならず、翌延暦九年(79

0年)三月に、按察使兼陸奥守に任命されている。同年十月、軍士四千八百四十

人が、功に応じ、叙位・叙勲された。  (この章終わり)