浅緑の釧路湿原


   サイタマンさん、飛鳥後期から平安初期の天皇制による専制は、明治から昭和前

期の政治に似ているところがあります。専制は外敵を必要とします。古代は朝鮮半

島から退けられて、東北エミシに矛先を向けたのでしょうね。

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   6月6日の釧路湿原は、ようやく緑が萌えた荒野、浅緑の草原、シダやヨシの下

茂る灌木林と、多様な春が併存していました。前回は禿げ頭に似ていたヤチボ

ウズにも、若々しい緑が伸びています。ここの湿原はかつて海だった場所。周囲に

は今も、海岸の崖だった高台が残っています。最後の一枚はその斜面です。

                              小説 縄文の残光 64

 

                  風雲迫る(続き)
 
   延暦七年(788年)三月、政府は多賀城に、陸奥国から三万五千余石の軍粮

(ぐんろう=兵糧)を運び込ませた。さらに、関東・中部諸国からは米・糒(ほしいい)

塩二万三千余石を。集められた兵糧は、合計で六万石弱。宮沢賢治の詩に見ら

れる慎ましい粗食は、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」である。征討の兵士

も、副食物からはほとんどカロリーを得られない。屈強な男が一日に必要な米は、

五合を超える。ほぼ五万三千人の兵士では、二十六万五千合。千合で一石。六

万石は二百二十六日分になる。だが古代の枡は現代の枡とはちがう。有力な説

は、0.4倍というもの。この倍率なら、約九十日分である。

   同じ日、関東・中部諸国は、翌年三月までに歩騎五万二千八百人を、多賀城

に送るように命じられた。対象とされたのは、これまでに軍に在って功を叙された

者、常陸鹿島神社に仕える賎民、その他の弓馬に優れた者である。次々参集し、

征討開始までには、ほぼこの人数が揃う。

   この勅に先立つ二月に、按察使兼陸奥守・多冶比宇美が鎮守将軍に、安倍猿

嶋墨縄が副将軍に任じられた。墨縄は、下総猿嶋郡の豪族で、これまでの征夷

に将校として参加している。前年就任しているもう一人の副将軍・池田真枚と共

に、今度の征討で実戦の作戦立案に深く関与することになる。三月には四人の征

東副使が決まる。その中の、多冶比浜成、紀真人、佐伯葛城の三人は、それぞ

れ坂東の国司である。残りの、入間広成は坂東の豪族。

   七月六日、紀古佐美が征東将軍に任じられる。齢五十六。十二月、古佐美は、

節刀を授与され、陸奥へ出立した。副将軍が死に値する罪を犯せば拘禁し、軍

監以下なら死刑を執行する権限を与えられている。

   召集された五万人余の兵は常備軍ではない。軍事行動開始前に、訓練が必要

である。その間兵は、多賀城や玉造塞に滞在し、軍粮を消費する。多賀城に蓄え

た三ヶ月分の米と糒は、日に日に乏しくなる。その上、多賀城や玉造塞から前線

へ軍粮を輸送するには、日数がかかり、多数の兵を輜重に充てなければならな

い。天皇は糧食不足を懸念し、古佐美に、迅速な進軍を強く求めていた。

                                                                                    (この章終わり)