知床の海(後)

   
   デジモナさん、拙い作品にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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   知床の海、後編です。プユニ岬から五湖の木道まで。このあたりからは崖が高くな

り、海岸にほとんど平地がないまま、海に落ち込んでいます。この日はほとんど日射

しがなく、曇り空でした。それでも途中では、白い波、海の青、萌える若緑の対比が、

目を楽しませてくれました。木道で海側を見ると、海と雪と笹、それに点在する岩が。


                                小説 縄文の残光 52

 

                                                オマロ(続き) 

 

   「オマロ、そこの木に登ってくれないかい。ブドウの蔓が絡みついて、上の方に

あんなに実がある。ぜんぶ落としておくれ。下で袋に詰めるから。なーに、少しくら

い潰れたってかまわない。どうせ揉んで酒にするんだ。薮の柔らかな葉や草が受

け止めてくれるから、ひどくは傷まないよ」

    「おばちゃん、よく洗わなくちゃね」と、こましゃくれた女の子。

    「だめだよ、洗っては。粒に付いてる粉(酵母)が落ちたら、酒にならないよ。

あんたも大きくなったら、好きな男に、うまい酒を飲ませたいと思うようになるさ。

今のうちに覚えておきな。枝とか蔕(へた)とかを取って壷に入れ、ぐちゃぐちゃに

潰すんだ。ぎっしり詰めてはいけないよ。壷の上の方に二、三分()隙間がない

とね。三,四日でぶくぶく泡が出てくるから、まめにかき回すんだよ。薄い色に仕

上げたければ早めに、濃い赤にしたければ半月ほどで、布で搾って、汁だけ壷

に入れ蓋をするんだ。一月に一回ほど、上澄みを別に取って、底に溜まった滓を

捨てる。涼しいところに半年も置けば酒になるけど、一年位してからの方がうまい

よ」

   「さあ、ヤマブドウアケビはもういい。先へ進もう」フレトイがみんなを促した。

緩い坂道を一刻ほど登り、道を逸れて林に入る。

    「これだ、わたしが付けた印がある。オマロ、堀棒で蔓の根元の五寸(15セン

)手前を掘っておくれ。片側だけだよ。自然薯の裏側が土の壁に埋まるようにし

て掘れば、途中で折れないから」

    「おばさん、もう二尺(60センチ)は掘ったよ。そろそろ先っぽが見えてもいいん

じゃないのか」

    「蔓が太かったからね、四尺はあるかもしれないよ」

    「うぁー、たいへんだ」

    「男どもは狩がきついって言うけど、山の芋を掘るのだって楽じゃないよ。だけ

ど、ほら、先が見えてきた。蔓につながるところを少し残して切り、その下から手

でやさしく壁から離しな。残ったところからまた芋が伸びるからね。よーし、うまくい

った。初めてにしては上出来だよ。どうだ、嬉しいだろ。食べるときだけでなくて、

苦労してうまく採れたときの気分は、たまらないよね。だからわたしら、山へ入る

のが大好きなんだよ」

   確かに、山の稔りを集めるのはたいへんだ。ヤマブドウを酒にするのだって、

出来上がりの量は少ないし手間もかかる。クリやブナの実は茹でたり炒ったりし

てそのまま食べられるけれど、固い皮を剥くのには苦労する。ナラ、シイ、カシの

実など、殻から出して何日も流水に晒さなければ、灰汁が抜けない。

   口に入るまでの苦労は、漁や狩も同じだ。何日も追って、一頭も仕留められな

いこともある。鮭鱒がほとんど遡上しない年もある。仕留めた鹿は、すぐその場

で捌かなければ、肉が臭くなる。獲れすぎた魚や獣は、手早く乾したり塩漬けにし

たりしないと、腐ってしまう。うまく処理しても、殻つきの穀物ほどは長持ちしない。

水稲栽培なら、狩漁や採集に比べ、十倍を超える人数の腹を満たせる。

   だが稲作は、暦や農事の知識に優れた誰かの指図に忠実に、毎年同じ単調

な作業を根気よく繰り返すことになる。狩漁や採集は、一人ひとりの工夫・熟練・

経験がものをいう。それだけに、スリルがあり、成功の喜びは大きい。それに平

均すれば、働く時間はずっと少ない。食べ物がある間は、眠ったりおしゃべりした

りで、のんびり過ごす。狩猟採集は、単にくらしを成り立たせる手段ではない。い

つもその瞬間に、力を尽くし、楽しむ営みである。稲作だけに頼るようになると、

今のくらしの満足感が失われる。

   オマロは、アテルイやエアチウと話したときのことを思い出した。ヤマトが攻め

てきて俘囚にされたら、こうしてみんなで秋の山を楽しむことも、できなくなるのだ

ろうか。(この章続く)