知床の海(前)


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   知床半島西岸から見た海です。網走の海を見慣れた目には、凹凸に富む海岸風

景がおもしろく感じられます。ついたくさん撮ったので、今日はオシンコシンの滝から

プユニ岬までを前篇として。

   最初の二枚がオシンコシンの滝の海岸です。最後の一枚がプユニ岬から。プユニ

岬は、ウトロ市街から知床五湖に行く途中にある、見晴らしのいい高台です。ここか

ら五湖の木道までの海岸風景は、後編として別にアップします。


                              小説 縄文の残光 48

     

                                  アザマロ(続き)

 
   政府は東北経営の危機を座視できない。主導権奪回を図る戦いで、矢面に立

たされたのは大伴益立だった。広純殺害の七日後、三月二十九日に陸奥守兼征

東副使に任じられる。征東大使(後の征夷大将軍)藤原継縄(つぐただ)。大伴真

綱は解任され、百済王俊哲(くだらのこにしきしゅんてつ)が鎮守副将軍に指名され

た。

   大使の継縄は、準備が整わないなどと言い立て、都を離れようとしない。益立も

行きたくはなかった。継縄は、皇位継承間近な皇太子、山部親王の厚い寵に護ら

れている。だが自分には、有力な後ろ盾はない。命に逆らえば処罰される。やむな

く出発し、陸奥国に入って軍を留め、斥候を放って多賀城とその周辺を探らせた。

   報告によると、多賀城は建物のほとんどが焼け落ち、大幅に改修しなければ防

御の役に立たない。多賀城より北では、エミシの襲撃を恐れ、柵戸の郡司や郷人

が相次いで逃亡している。俘囚村の多くに、戦意盛んな新しい族長が立った、とい

う。

   率いてきた僅かな手勢で北へ進軍するのは、火中の栗を拾うに等しい。益立は

多賀城の改修を進めながら、戦力の建て直しに努めた。だが朝廷では、宝亀

年(772年)の、前皇太子とその母后(井上内親王)が失脚した政変が尾を引き、

不穏な気配が治まっていない。奥羽で早急に権威を回復しなければ、反対派に、

東北政策失敗を批判する口実を与えることになる。政府指導部は焦っていた。益

立は征討遅延の責任を問われ、指揮権を奪われる。

   六月に俊哲が鎮守将軍に昇格した。九月には継縄が更迭され、藤原小黒麻呂

が征東大使に任官。このときから征討実施の責任は小黒麻呂に移る。益立は、

事態の推移を見守るしかなかった。

   多賀城に赴いた小黒麻呂は、一か月を費やし、改めて状況を確認した。益立が

四面楚歌の北へ進軍しなかったのは、当然だった。征夷の一年延期を朝廷に奏

上したが、返ってきたのは、天皇の勅による叱責。小黒麻呂はやむなく、十二月

に二千の兵を率いて出陣した。

   伊冶城から五里近く南、玉造の塞に近い鷲座(わしくら)と石沢、さらに西の柳

沢など、五つの俘囚村で、玉造や多賀城へ通じる道路を、倒木と溝で遮断して引

き上げた。多賀城襲撃の後、エミシの意気は高い。結集した相手を正面から攻め

れば、惨敗は明らかだった。

   百済王俊哲は、海道でエミシに包囲され、所の神々に祈った甲斐あってか、辛

うじて脱出している。不穏なのは、陸奥だけではなかった。出羽国でも、雄勝や平

鹿の郡家と柵戸が襲われた。秋田城さえ、一時的にだが、放棄された。

    翌天応元年(781年)二月三十日、坂東諸国は、穀十万石を陸奥国の城柵や

 塞に漕送するように命じられた。水路が指示されたのは、陸奥国内の官道が安全

 でなくなっていたからである。 (この章続く)