ノビタキのカップル


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   最初の一枚は釧路湿原、他は能取岬です。どちらも鳥の名にふさわしく、野と言え

る場所です。ワッカ原生花園やオムサロ原生花園などでも見たことはありますが、森

では会ったことがありません。

   オスは胸のオレンジ色と頭から背にかけての黒で、見分けが容易です。メスに気

付いたのは今度が初めて。遠いけれど、胸の色が淡く、頭部のカーブがなめらかな

印象です。いかつい男とたおやかな女のカップルみたい。5枚ともオスが上にメスが

下に止まっているのは、単なる偶然でしょうか。


                                   小説 縄文の残光 41

     

                    アザマロ(続き)

 

   天平宝宇八年(764年)、前から続いていた天皇家の内訌に絡む権力闘争が、

激しい武力衝突に至った。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱と称された事件である。こ

のとき嶋足は、孝謙上皇側に立ち、仲麻呂側を武力制圧するうえで、大功があっ

た。勝敗が決し、孝謙(称徳天皇)重祚すると、天皇その功を賞され、従七位

上から一気に従四位下に昇進し、宿禰姓を授けられた。その二年後には、正四

位上に昇る。エミシ地域の豪族が貴族にまで成り上がった例は、このころ他にな

い。

   一族の道嶋三山は伊冶城造営に功があり、従五位下に序せられ、陸奥国府で

次々上席を占める。道嶋御楯は、外従五位下、鎮守副将軍、陸奥国大国造に昇

り詰める。そして道嶋大楯が牡鹿郡大領である。都へ出たこともあるが、今は地

元で一族の勢力を固めるのが役目。

   道嶋一族はエミシの地に在って、率先して都風に同化しようと、努めている。序

列を上昇し、財を増やすためだ。その過程で、エミシと蔑まれ、口惜しい思いもし

てきたようだ。自分たちはもうエミシではない、それにもとはヤマト人なのだ。そう

思えば、周りの「エミシ」をことさら見下したくなるのだろう。ましてアザマロは大楯

にとって、自分の上位に立とうとする、目障りな競争相手である。だから敵意が態

度や言葉に出る。それは分からないわけではない。だが、宴の席での辱めは、け

して許せない。

   アザマロの根拠地は栗原。その北は胆沢だ。胆沢には、自分の代より三百年

ほど前に、最北の前方後円墳(角塚古墳)が、ぽつんと一つ築かれている。当時

はヤマトと同盟する豪族がいたのだ。アザマロの時代も、山道一の稲作地帯で、

いくつか大集落がある。栗原の南は、七世紀初めから活発な入植が行われ、黒

川以北十郡が置かれた。丹取軍団(後の玉造軍団)の所在地でもある。このあた

りには、早くからヤマトの支配が及んでいる。

   伊冶城が築かれ、栗原郡が置かれたのは、黒川以北十郡の北。東の北上川

へ五里、奥羽山脈に繋がる山林が西から迫るあたりである。一帯に、古い大き

な墳墓はない。この地の人々は稲作を取り入れた後も、城ができる前は、昔なが

らの狩猟採集をだいじに受け継いできた。稲田の広がりは限られ、集落はあまり

大きくない。

   ここに城ができるとわかったとき、族長として、恭順するか抗うかを、決めなけ

ればならなかった。進駐してきた軍は大きく、戦えそうにない。そう思って、しかた

なく築城に協力した。その結果、郡司の一人に加えられたのだった。

   その二年後、坂東などから二千五百人のヤマト人が新たに入植して来た。ア

ザマロ率いる柵養のエミシも狩り出され、水田が広げられた。しだいに昔ながら

の狩猟採集の場が狭められ、俘囚の不満が高まっている。それでもアザマロは、

仲間たちを宥め、役人に協力してきた。政府の力が揺るぎないものに思えたから

である。(この章続く)