白樺の白

 
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  白樺の幹や枝はどの季節でも、どこでも白いはずですが、なぜか残雪期の摩周湖

外輪山では、ひときわ白が際立つような気がします。青い湖面や青い空とのコントラ

ストのせいでしょうか。それとも、寒風と雪に晒されて色が抜けたのでしょうか。

 
                                     小説   縄 文 の 残 光  3  


                        ウクハウ
 
    「城柵には戻らん。命のあるうちにさっさと帰れ」
  
  ドングリ眼(まなこ)をひん剥き、蕨手刀を振り上げた髭面の大男が、赤い喉が見

えるほど大口をあけて喚く。弓に矢を番えた六人の若者が、大男を護っている。対

するのは、桃生(ものお)城の城司が遣わした使者と、随行する二十人の兵。二尺

(60センチ)ほどの直刀を腰に差してはいるが、甲冑は着けず楯も持っていない。

戦いになるとは、思っていなかったのだ。使者の一行は、怯えて後ずさりし、広場

のはずれで向きを変え、小走りに立ち去る。その背に向かって男は叫ぶ。

   「一族を糾合し、城を攻めてやる。楽しみに待っていろ」

朝廷の記録に残っているのだから、族長ウクハウの声は、逃げ去る使者の耳に

届いていたのだ。場所は、旧迫(さこ)川と旧北上川が、掌をあわせるように合流

する地点の北、遠田地域の南東端にあるウカンメ集落の広場である。時は宝亀

元年(770)七月末。

   天宝宝宇二年(758年)、集落から南二里(8キロ)の丘に、桃生城が築かれた。

このときウクハウは、特に抵抗することもなく、招かれて城に出かけている。そこ

で、数々の賜物とともに、地名に公を付けた姓を授けられ、宇漢迷公宇屈波宇

(うかんめのきみうくはう)と呼ばれるようになった。酒食でもてなされた上で、城に

常駐し、ヤマトとエミシの朝貢交易を仲介するようにと、請われたのである。

   四十年近く前のことだが、養老四年(720年)と養老八年に、かつてなかった大

規模なエミシの蜂起があった。養老四年には按察使(あぜち=国司の上役で、複

数の国を管轄する)が、八年には陸奥国司の一人が殺害された。騒乱が鎮圧さ

れた後、黒川より南は律令地域にしっかり組み込まれた。だがそれからヤマト

は、北のエミシを大きく刺激する動きをしていない。陸奥国府と出羽国府を官道で

結ぶ事業はあったが、関連地域以外では、むしろ融和を図ってきた。ウクハウは

桃生城も、昔エミシ地域にあった柵の官衙(かんが=官庁)を大規模にした、市場

施設のようなものと考え、請われた役割を受諾した。

   だがウクハウは、城内で過す日々を重ねるうちに、ヤマトの融和策が上辺だけ

のものだと悟った。祖先からの狩り場に田を開き、坂東から移民(柵戸=きのへ)

入れた。俘囚(恭順したエミシ)の軍を組織させ、山道(さんどう=内陸部の北上川

流域)エミシを討つため使おうとしている。交易で、城の武力を背景に、エミシに不

利な取引を押し付けている。そうやって得た利を、一部だけ都に送り、多くを役人

が懐にしている。桃生城の主は国府から派遣された城司だが、実際に支配して

いるのは、城から石巻の海にかけて勢力を広げている道嶋一族。この一族は坂

東から移り住み、牡鹿に郡が建てられると、郡司になった。ヤマトに従ってエミシ

討伐に功績を挙げ、朝廷の内紛で勝ち馬に乗り、官職を得てきた。奴らはエミシ

ではなく、ヤマトの手先だ。都の役人も道嶋一族も、内心では、オレたちを獣のよ

うに蔑んでいる。そういうことが分ってきたのである。だから城を退去し、集落に帰

った。それが、城司の使者が呼び戻しに来た日の、二日前だった。(この章、明日

に続く)