ツグミ


   デジモナさん、昨日のお写真の最後、オドリコソウでしょうか。こちらでは初夏に

白い花をよく見かけます。

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   雪が消えはじめた和琴半島で出会いました。木の上の後ろ姿でははっきりしなか

ったのですが、湖畔を歩き回っている姿をネット図鑑と照らし合わせると、ツグミのよ

うです。屈斜路湖畔で、ときどき見かけます。

 
                               小説 縄文の残光
 
                                     まえがき
 
   この小説は、774年から811年の、東北38年戦争に焦点を合わせている。当

時、都のある畿内以外は、七道のどれかに属する国に分かれていた。現在の東

北六県は東山道で、秋田・山形両県域は出羽国、それ以外は陸奥国とされた。養

年間に、現福島県域に岩城・岩背の二国が建てられたが、五、六年で陸奥国

合されている。陸奥国府は、仙台平野の南、海寄りに築かれた多賀城にあ

った。

    38年戦争の主要な舞台は、岩手県宮城県北部だった。主役はエミシ。縄文

化の気風を、色濃く残していた人々である。縄文文化は、日本列島で本州東部

と北海道を中心に、1万年以上前から、ほぼ8千年間続いた。狩猟採集を主な生

業とする、部族社会の文化である。「主な」と言ったのは、粗放栽培や石器製造を

副次的な生業とする部族もあったようだから。

   敵役は律令国家である。その母胎は弥生文化。大陸や朝鮮半島から渡来した

と文化の影響で、北九州と本州西部から始まった。主な生業は潅がい稲作であ

る。狩猟採集よりずっと効率がよく、人口が急増した。食糧を生産しない、たくさん

の人を養うことがでた。集団が大きくなり、職業が分化して階層化が進み、部族

社会から首長制社会に変わる。古墳時代のクニグニを統合したのが、大和朝廷

畿内の豪族集団である。やがて天皇専制律令国(以下ではヤマトと表記する

ことが多い)が成立し、38年戦争のころには、九州(南部を除く)から東北地方南部

まで、支配するようになっていた。
 
   アイヌから見れば、東北エミシは自分が生まれる前に亡くなった伯父さんみたい

なもの。アイヌの親にあたる擦文文化人が、エミシの兄弟だった。兄弟の親は続縄

文文化人で、東北地方と北海道に跨って住んでいた。お祖父さんが縄文人。エミシ

と擦文文化人の代になって、住む場所が津軽海峡の両側に分かれた。交流がなく

なったわけではないけれど、やはりだんだん、くらし方に違うところが出てくる。アイ

ヌの誕生はエミシが亡くなってからなので、世代も違う。それでも、両方とも縄文人

の直系子孫だった。人と文化の渡来が引金になって生まれた弥生文化人より、互

いがずっと似ている。

   言葉にしてもそうだ。進んだ技術をもつ文化は、伝播力が強い。渡来人は、それ

までの言語を大きく変質させたにちがいない。そしてできたのが、ヤマト言葉。東

エミシとアイヌの言葉は、縄文語の系譜につながっているはずだ。

   と言っても、最近みたいな速さで情報が広がる時代じゃない。もともと部族ごと、

地域ごとの多様性は大きい。隣の部族の言葉も、関東人にとっての津軽弁みたい

なもの。海を隔てて住み分けてからは、さらに分化が進んだにちがいない。エミシ

アイヌ語を話していた、などとは言えない。それでもヤマト言葉よりは、ずっと互

いに近縁だっただろう。だから今も残る東北の地名は、アイヌ語で解釈できるもの

がとても多い。
   
   続縄文文化は、弥生・古墳文化と交易するようになった縄文文化。擦文文化は

ヤマトとの交易がさらに進み、土器から縄目が消え、土師器・鉄器の使用も増えた

文化だ。(「はじめに」は明日に続く)