摩周岳の岸壁
デジモナさん、ムクドリの画像、鮮明ですね。わたしは眼がわかるところまでは、
なかなか小鳥に接近できません。
摩周湖外輪山の最高峰、摩周岳です。標高はわずか857メートルですが、遠く
美幌峠からもシルエットが見えます。近づくと、南側岸壁が切り立っていて、標高
が低いにもかかわらず、威厳のある山です。
小説 縄文の残光 9
逃 散
「あれのおかげで、何とか時間を稼げた。谷川で臭いが途切れたはずだ。きっ
ともうだいじょうぶだ。林を横切れば、またつづら折の道に戻れる。坂を越えたと
トの役人はいないし、下野の追っ手も来ない」
トクの体から流れた血の臭いが、狼の群れを引き止めた。それで家族が生き
延びたのだ。だがそのことは、志波の集落に落ち着いてからも、誰も口にしなか
った。まるでトクという子など、初めからいなかったみたいに。
宝亀三年(772年)、下野のここそこで、百姓(ひゃくせい=官吏になれる姓をも
争に敗れて配された道鏡が没している。
尻砂郷は、戸数五十、人口千人ほどの集落だった。下野(群馬県)の北東部、
甘籠山の斜面が方静川に落ち込む手前の、なだらかに起伏する段丘上にある。
数軒の小屋が互いに近接して建てられ、それぞれに親族のほか、物持ちの戸で
あれば奴婢も住む。その一まとまりが、戸籍では戸とされ、戸数五十でひとつの
郷(さと)を構成するように調整された。ほぼ二十の郷が郡を構成する。尻砂の郷
人は、田畑を耕し、蚕を育て、薪炭を採ってくらしている。
逃散の前年、斜面の林で山葡萄の葉が色づき、やがて山頂から楓の紅葉が
下りはじめようとするころのことだ。まだ暗い早朝、甘籠山中腹の狭い杣小屋で、
窮屈そうに身を寄せ合う十一人の男たちの中に、トクシもいた。触れを回したの
はトリ。トクシやシマの兄のフケイと同年の三十二歳である。三人は幼いころか
ら気が合って、いっしょに家々の間や野山を駆け巡って育った。
尻砂のような鄙(ひな)の郷にも、勢力争いはある。一方の旗頭は郷長一族。こ
こ三代ほどで富戸に成り上がった家である。郷長は娘を、妾(しょう)として国司の
一人に差し出していた。
反郷長派の旗頭がトリの家。かつての国主(くにぬし=クニの王)一族から分
かれた、古い家である。今はけして豊かではないが、望めば郡家(郡司らが詰め
る郡の役所)に挙げられても不思議のない家柄だった。だがトリは、文字が得手
ではなく、弓矢を手に野山を駆けるほうが好きだ。だから都ぶりに染まって役人
になることなど、望んだことがない。都人が仏の教えだ と言って狩りを疎(うと)み、
獣肉食を蔑むのにも、我慢がならないと、いつも言っ ている。
かつて下野は、坂東(関東)のクニグニのなかで他に先駆け、ヤマトと同盟を結
んだ。そのころ、下野氏一族が国主だった。各集落から有力な族長が集まって
談合し、下野一族の誰かを、国主に推す。文字の知識は問題ではない。呪力が
認められたり、戦いに強かったり、すぐれた農事指導者であったりすればいい。
だが時代が変わった。
方を統治していた。都で貴族として遇されている下野氏本家を除けば、かつての
国主から別れたどのー族も、今は、朝廷から郡司に指名される資格のある、地
書を読み、報告を綴る能力を求められた。 (この章続く)